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2017年11月17日 (金)

紡績工場跡地からみる企業誘致の歴史

晴れ

H291118yuhoboseki 倉橋島(呉市音戸町)から早瀬大橋を通って能美島(江田島市)に入ったところが大柿町大君地区。道すがら左手に建物群があります。平成25年(2013)9月に閉鎖したユウホウ能美工場。(→H>H25.10.23) この建物(会社)の歴史は大柿町史及び(株)ユウホウHPによると、

明治30年(1897)に朝日紡績(株)能美工場として設立
明治31年(1898)山本紡績と改称
明治33年(1900)買収により大阪合同紡績(株)能美支店
昭和 6年(1931)合併により東洋紡績(株)能美支店
昭和17年(1942)呉海軍建築部へ工場敷地建物を売却
昭和24年(1949)東洋紡績が物件を買い戻し、以降事業中止
昭和28年(1953)能美紡績(株)成立、昭和29年より操業開始
昭和42年(1967) 能美紡績と福山紡績が合併し裕豊紡績となる
平成 3年(1991) (株)ユウホウに社名変更

 なぜ紡績工場がこの地に出来たのかということですが、幕末の頃には芸州藩において木綿栽培(綿作)が一番盛んだったのが能美島だったようです。その当時は、有力な商人が農家が生産した木綿を買い取り、各農家の婦女子に綿打・木綿織加工させて、製品を大阪の市場に送り出す問屋制家内工業だった。

 島の綿作が枯渇した明治20年頃を境にして、長らく農家の副業として成り立っていた木綿業も衰退した。古い生産方法(問屋制家内工業と地機(じばた)・高機)による製品は工場制大工業の機械による大量生産に基づく安価な製品に対抗できなかった所以です。これも時代の流れです。

 元々、綿作が盛んだった地であり、この状況を何とか打破したいという一人の実業家(佐々木伝助、大柿町出身)の熱心な企業誘致活動によって、朝日紡績が近代化工場を設立し、農家の生産意欲と雇用の創出をなした。

 いま江田島市において廃校舎等の未利用公共施設を活用して企業誘致を行なっています。実った案件もあれば、これからもう一度再検討しなければならない案件もあります。市民・行政・議会が一丸となって、江田島市ならではの企業誘致に取り組むことが大切であり、何かヒントがあるはずです。

※参考: ユウホウ能美工場は広島県教育委員会がまとめた『県の近代化遺産』にも取り上げられています。(→こちら建物写真HP

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